大戦の果ての山野に ある元帝国陸軍兵士の覚え書き

 

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第六章 北鮮の山河を


 昭和十六年四月十三日、日ソ中立条約が締結された。既に前々年に独ソ不可侵条約が締結されていたのでそれに呼応するような結果になったが、ドイツの思わくと日本の思わくとが合致していたわけではない。日本が中立条約を締結してから二カ月もたたないうちにドイツは不可侵条約を破棄し、宣戦布告してソ連への広範囲な大攻勢に出たのである。日本にとってソ連との中立条約は、長期に続いている中国大陸の広大な戦線にわたる日支事変の調整と再攻勢の準備に役立ったし、太平洋方面、東南アジア方面にたいする対米・英・蘭との緊迫した情勢に間を置くためにも必要だった。しかし前年九月に締結した日・独・伊軍事同盟の関係で、ドイツと戦争中のソ連にたいし、その軍事力を極東にそのまま駐留させ極東に引きつけて置くように工作することもまた必要だった。このことに関連して独ソ開戦から十日後の七月二日には、大本営の命令で所謂「関特演(関東軍特別大演習)」と称せられる軍の大演習の形での大幅な動員令が発動された。この「関特演」を通じて対ソ戦に備えるための関東軍の増強が企てられ、総勢五十万余に達する装備訓練ともに優れた大関東軍が編成されたのである。

 京城の東北部に当る東崇町の大学通りをはさんで、東側に京城帝大の本部、図書館及び法文学部の校舎があり、西側に医学部の校舎及び附属病院と病棟が並んでいた。

 初夏のある土曜日の昼下がり、大学通りのアカシヤの並木がさわやかに吹きわたる風にそよいでいた。

 私は学友の福山のすすめで昨秋来法律のグループ勉強をしていた。そして当番制で毎月一回集まってお互いに理解しにくい事項について論議し合い理解を深めるように努力していた。この日は大学通りに近い吉田宅が会場だった。

 私たちの入学年次の民法は有泉亨教授が担当されており民法は学習範囲が広いので有泉教授の研究室を訪れ指導を受けることが多かった。先生はわれわれの質問に快く応対して下さったが、学問上の指導は厳しかった。

 その日のグループ学習の内容は、「物権」に関することが中心だったが、物権の概念に関するローマ法とゲルマン法との比較から、土地の所有中心、土地の利用中心の比較論が、共同学習が終った後も話題の内容に引き続いていた。

 友人たちと別れて私は大学の近くに住居のある従兄宅に立ち寄ろうと思った。そして大学の裏手の丘の住宅地に向かってゆるやかな坂道を歩み始めた。私より十二歳年長の従兄は京城地方法院の判事だったが、召集を受けて北支に出征していた。彼の書斎には「法律書」のほか「経済関係の書」も多かった。マルクスの『資本論』(高畠素之訳)も揃って書棚に並んでいた。また憲法学者「美濃部達吉」の著書も刑法学者滝川幸辰の著書も書棚に存在するのが当然のように並んでいた。これらの図書は言論の自由、学問の自由の国権による圧迫が強化されていた当時、学生の身分では大学の図書館においてすら読むことが困難な図書類だった。私は裁判官という身分保障の地位にある従兄の書斎を時々訪れ、言わば禁書となっているこれらの書をむさぼるように読ませてもらった。

 この日も読書の前に従兄の子供たちの遊び相手をし義姉としばらく雑談した。義妹は日本女子大出身で文学に関して深い趣味を持っていた。

 この日の夕食後も義妹との文学談話が楽しかった。
 「卯一さんは川上喜久子の書いた『白銀の川』をお読みになりましたわね。川上さんは私と同じ平壌育ちです。昭和六年頃まで平壌に住んでいたようですが、読後感はいかがでしたか」

 「僕は内地人の作家が朝鮮人の心情を描くのは困難なことだと思いました。それは男性についても女性についてもです。そのことは以前に書かれた『滅亡の門』についても感じていました。『白銀の川』ではそれに登場する主人公の男性の一人が朝鮮人であり、滅亡の門では主人公の女性が朝鮮人なんですが、何れの男女も言わば観念的なインテリ朝鮮人としてしか受け取れないんです。それにたいし登場する内地人の男性たちや女性たちは、生き生きとした具体的な存在として措かれている」

 「やっぱり朝鮮で育った内地人だからこそ同じ育ちの内地人のことは適切に書けるんでしょうね。私たち朝鮮で長く生活しても、朝鮮人の民族性に根ざした男女の人間像はなかなか掴めませんものね」
 「そうですね。それに自分自身の胸の中をのぞいても、民族の異なる男女の問題になるとお互いに別々の世界の異性問題のように、諦めに似た思いがあるような気がします」
 「責方の朝鮮人の学友との関係で、朝鮮の若い女の方とお友達になる機会がありますの」
 「全く可能性が無いような気がします。心の中で望んでいそも、お互いに相手の民族の女性にたいしては、遠慮というか、気がねというか、そんな心情が作用しているんじゃあないでしょうか」

 二階に上がって美濃部達吉の著書を拾い読みし、九時少し前に従兄の家を出た。市電の停留所で電車を待っていると後ろから呼びかけられた。振り向くと先輩の灘井さんだった。彼は肺を病んで卒業を延ばしていた。

 「どうだ。勉強は進んでいるかね」
 と問われて、私は正直に、
 「いろんな勉強に気がひかれて焦りばかりがつのって来ます」
 「君も去年は胸を患ったんだから、焦りは禁物だ。関心の湧く問題にじっくりととり組むんだな。どんな科目だってただ憶えようとするんじゃなく、問題意識をもってとり組めば、理解がずっと早まるよ」

 灘井さんとは大学の予科の頃、学校の文芸雑誌の編集委員をしていた関係で、既に学部に在学中の灘井さんに仕事のことで指導を受けることも多く、その縁が引き続いていたのである。

 私は以前に灘井さんから、朝鮮総督府制定の「土地調査令」が朝鮮の農地に適用された経緯を聞いていた。そして、大正元年(一九一二年)から大正八年(一九一九年)にわたる土地調査事業が、土地の所有権という近代法の制度と朝鮮の慣行法的土地利用制度との関係で、農村社会に大きな影響を与えているという詰も聞いたことを思い出した。そして学友との昼の勉強会で物権に関するローマ法思想とゲルマン法思想との比較をもとに土地の所有中心・利用中心に関して議論した内容を電車の中で反芻していた。

 土地調査事業を基本とする農地利用権にたいする行政的措置が原因となって、多くの耕作農民が小作農化し、これに伴う農村の貧困も進行したと言われていた。このことが大正末期から昭和の日支事変に至る間の日本の鉱工業の発展期と平行して、労働者の需要の増大に伴う朝鮮人労働者の日本本土移住となったこと。更に昭和十年以降の北朝鮮工業地帯の発展に伴う労働者需要を充たすとともに、一部は流民化して高原地帯の火田民となり都会に入って土幕民となっている。このような社会現象は、資本制経済の発展過程においては必然的なものであるとともに、朝鮮における農地政策がこれを推進する結果となっていたのである。

 日支事変による戦時状態の長期化の影響で、昭和十四年の「国家総動員法」施行以来、軍需重点の物資の配分計画が逐次強化されていった。この年昭和十六年の四月から主食の配給制が実施され調味料にも統制が及び始めていた。衣料品も純綿とは縁が遠くなり始めていたが、それでも朝鮮では内地よりも生活必需品に関する統制の程度は若干緩められているようだった。街の喫茶店では大豆粉混じりのコーヒーが飲めたし、レストランでは雑穀の混じった御飯ものの食事ができたし、食パンにマーガリンのトーストも食べることができた。

 昭和十六年の六月二十二日に、独ソ不可侵条約を破棄してソ連邦に攻撃を開始したドイツ軍は、破竹の勢いで七月から八月にかけてソ連領内を侵攻していた。日米間では野村大使が米国に赴任以来ハル国務長官との間に懸案問題に関する実質的な日米交渉が開始されていた。ハル国務長官から所謂四原則が主張され、その内容は「内政不干渉」、「通商の機会均等」、「すべての国家の領土保全と主権の尊重」、「太平洋の平和」だった。これは具体的には日本の中国にたいする行動を制約し南進策への牽制となる要求だった。これにたいする日本側の対応は、中国との戦争状態を有利に解決するようヨーロッパの情勢の推移を見守りながらの交渉だった。そして七月十七日に成立した第三次近衛内閣は日米交渉の前途に希望が持てるようこれを促進することが期待されていた。

 夏期休暇に入ると、私は学友の江上と共に父の勤務する北朝鮮の鉱山に赴き、鉱業所長宅の一室を使用して法律関係の科目の基礎的な学習に一カ月余りを過ごす予定だった。

 七月二日には関東軍特別大演習が開始されており、兵員輸送のため幹線のダイアは臨時に大幅に削減されていた。やむを得ず私と江上はローカル列車を乗り継ぎ、平壌で一泊して平安北道の孟中里に到着。鉱山のレストハウスで休憩をとり、鉱山の乗用車に便乗させてもらって夕方の五時頃には所長宅に到着した。

 昭和六年から昭和十一年にわたる宇垣一成総督の頃から、朝鮮においても産金奨励政策がとられていた。日本は米国から石油、屑鉄、工作機械等を買入れて備蓄するための決済手段として「金」が必要であり、金の生産を奨励していた。朝鮮北部の山岳地帯には金鉱の埋蔵量が多かった。

 久原房之助を創立者とする鉱山会社日本鉱業は、日本本土はもとより朝鮮、台湾においても金・銀・銅の産出を主とする数多くの金属鉱山を経営しており、日立、佐賀関、そして北朝鮮の鎮南浦に古くから大規模な製錬所を設置していた。そして更に昭和十二年以降になって、朝鮮における米国資本の会社が経営する大規模な大楡洞金山および雲山金山の買収を終え、これを拡張して増産体勢を進めていた。

 父は昭和十五年八月以来大楡洞鉱山に転勤し、昭和十六年には鉱業所所長として勤務していた。所長宅には米国の会社から買収した支配人宅の施設をそのまま使用していた。建坪面積百五十坪余りの広壮な平屋建で、応接室、ホール、読書室、娯楽室、食堂等の施設とともにツゥインベッドの個室が八室余りあった。

 私は学友の江上とともに七月中旬から八月中旬までの四週間余りをここで過ごした。室内は冷房装置など無い時代だったが、建物全体が樹蔭になっており網戸を通して流れ込むひんやりしたそよ風が心地良かった。緯度で言えば札幌と同程度なので、良く晴れた日中でも室内の温度は二十四度前後だったと思う。

 鉱山は従業員が約一千名、所長の下に五課と医院があり、内地人の社員は七十名余り勤務していた。採鉱課の係長さんの案内で鉱山を見学させて貰った。斜坑を下るインクラインで地下深い坑道に入り込んだ。採掘現場では削岩機はすべて岩粉が飛散しない水冷式であり、製錬は青化製錬が行われており、精製された金は日本の発券銀行の一つである朝鮮銀行本店に納入されていた。鉱山は豊かな自然に包まれている感じだった。八月も十日を過ぎると朝夕は冷え冷えとする程の涼しさだったが、よく晴れた真昼はなお日ざしが強く、北朝鮮の北部とは言っても日照りに立てば真夏のさ中と覚える程の暑さだった。

 庶務課長さんが一泊二日の予定で、警察や郡役所等に恒例の挨拶まわりをするため会社の乗用車で出張されることになった。私と江上とはこれに便乗させて貰い、国境地帯の鴨緑江や完成間近の水豊ダムを見聞させてもらうことになった。

 朝七時頃出発し、二箇所余りの役所に立ち寄り、いよいよ平安北道の中央分水嶺である高さ一千メートル級の山々が連なる山脈の峠にさしかかった。道路は総督府が所謂産金道路として開発した幅五メートル余りの山道である。車は曲がりくねった坂道を上り、遠く山並を展望できる尾根を走り、更に峠を越えて鴨緑江の流れを見はるかしながらうねうねと下っていった。

 庶務課長さんはこれから訪問する昌城の警察署に五年余り前まで勤務していた方だった。警察官として平安北道の警察に勤務し、鴨緑江岸の国境警備隊にも勤務歴が長かった。大正末期から昭和初頭頃は、未だ国境地帯の治安が安定していなかった。課長さんはその頃の思い出話を道すがらいろいろ語ってくれた。

 警察署を訪れる前に車は移転した新しい昌城の街並を通った。昌城は鴨緑江岸の町として有名であり、小学校の教科書の地理附図にも掲載されていたが、水豊ダムが造成される過程で水没することになったため移転させられたのだった。其処は江岸から丘一つ隔てた盆地状の地形だった。人家がかなり並んでいたが活気は無く、夏の真昼日の下で森閑としたたたずまいだった。警察署でダムを展望できる場所に行く道を確認し、十二時半頃になってダムの真上の台地に到着した。眼下には巨大なコンクリートの城のようなダムが、朝鮮側の岸と満州側の岸との間を豪然とした姿で横たわっていた。既に当時の新聞やラジオで公表されていたが、このダムに使用されたコンクリートの総量は、鹿児島から青森までの二千五百キロメートル余りを幅員十メートルの舗装道路を作るのに必要とされる量に匹敵すると説明されていた。ダムの下部には一機の発電量十万キロワットの発電機が等間隔で七カ所並んでいた。出力七十万キロワットのダム式発電所である。

 この巨大ダムでせき止められた長さ八百キロメートルの大河鴨緑江は、さながら溜池のように谷あいを奥深く横たわっていた。ダムの満州側の岸に沿って、コンクリート造りの運河のような流水路がつくられてあり、上流から筏を組んで下って来た丸太材は、ここでバラされ、水路をおし流されて、ダムの下手の河の流れの処で再び筏に組まれて下って行くという施設だった。発電所の近くには、強圧送電用の鉄柱が幾本も並び、既に送電線が取り付けられている鉄柱は、電線を受け渡ししているような姿勢で、遠くまで展望できる線の山並を越えて連なっていた。

 もう一時に近かったので、工事場近くの町の飲食店で昼食をとる予定で展望台地を下った。工事が始まってから五、六年の問に増加したらしい水電関係の建物や幾つもの土建会社の事務所があり社宅や飯場も多く、人口一万を超す雑然とした都市が形成されていた。

 街へ出て病院の前を通りかかると丁度治療を終えて来たばかりの四十歳位のがっちりした体格の男に出会った。彼はカーキ色の手長シャツを着て顔に真新しい包帯を巻いていた。

 「お! 有坂さんでねすか」
 と彼は庶務課長に呼びかけた。その声で有坂課長は車から降りて、
 「あ、田中さん」と返事をしながら、
 「その包帯姿はどうしました」と聞いた。

 田中さんは有坂さんが警察官時代の後輩の刑事だった。

 「いやあ、おとといの午後、ダムの近くでとりものがありましてね。私が以前から目をつけていた、対岸からもぐり込んで来た工作員のアジトをつきとめましてね、隙を見てひっとらえようとしたところ、急に彼が私の唇に噛みついて来ましてね。四針縫うような裂傷を負いましたよ」
 「そりゃ、災難でしたなあ。それで犯人は」
 「この傷にひるまず逮捕しました」
 「丁度いい。どこかで一緒に昼飯でも食べながら詳しい苦労話を聞かせてもらいましょう」

 と有坂庶務課長さんが言うと、田中刑事は、

 「行きつけの内地人の店があるからご案内しましょう」
 と言って、私たちと並んで会社の車に乗り込まれた。有坂課長さんが私ども二人を田中刑事に紹介してくれた。刑事は、
 「あ、京城帝大の学生さんですか。今ここの病院に医学部から学生さんが二人、実習に来ておられますよ」と言いながら、「確かその一人は小林さんとか言う方でしたよ」と言った。

 大学予科以来二年先輩の医学部学生に小林さんという方が居られ、一度も話したことはなかったが、彼の名と顔は覚えていた。庶務課長さんに頼んで、私と江上は彼に挨拶のため病院に立ち寄らせてもらった。小林さんは、
 「やあ、君たちの顔は予科の頃見覚えがあるような気がする」と言ってくれて、「こういう場所で会うなんて、何か縁があるんだなあ」と言われ、
 「鴨緑江水電の病院は、この水豊のほかに上流で工事中の雲峰にもあって、いずれも医学部の先輩が医師として勤務しています。その関係でこの夏はここで実習させてもらっているんですよ。工事現場に労務者が多いのでやっぱり外科が忙しいですね」
 と小林さんは語った。

 内地人の経営する飲食店は数軒あり、田中刑事さんはその中でも比較的小さな店に案内してくれた。店では若い女が二人接待に出ていたが姉妹だということだった。この水豊ダムの発電所は十月に一部完成し、総督も出席して竣工式が行われることになっていた。このダムの竣工に伴って、労務者たちは徐々に移動する予定であり、大手の土建会社の他の建設現場である雲峰発電所に移るものが多いようだった。この発電所は水豊から上流に約百五十キロメートル余り、朝鮮の平壌から満州の通化を経て、満鉄本線の四平衡に至る鉄道に沿った、江岸の都市、満浦鎮の北に在った。

 「お姐ちゃんたちもどこかに移るんだろう」
と有坂課長さんが聞くと、二十代も半ばに見える姉娘が
 「ええ、十月の末頃には世話になっている人が満州のダム工事場の方に移るんで、そっちの方に行きます」
 「満州のダムというと、松花江の豊満ダムか」
 と刑事さんが聞いた。
 「そうです。吉林から奥に入ったところです」
 「遠に行ってしまうんだな」
 と有坂課長さんが独り言のような口調で言った。

 妹娘は十七、八歳ぐらいだった。姉は洋服だったが彼女は着物姿だった。
 「くにを出てから未だ一度も帰れないうちに、私たち、どんどん遠くに往ってしまうのね」
 彼女も独り言のようにつぶやいた。
 「おいおい、真昼間からあんまり淋しそうな顔をするなよ。さあ咲ちゃん、そろそろお得意の歌と踊りを見せてくれよ。課長さんにチップをはずんでもらうからな」
 と刑事さんが言うと、
 「じゃあ咲ちゃん、初めは鴨緑江節をね」

 と姉娘が明るい声で言った。咲ちゃんと呼ばれた妹娘はにっこりうなずいた。姉が歌い妹が踊った。

 「ここは 朝鮮 北端の
  二百里 余りの 鴨緑江
  渡れば 広漠 南満州」

 有坂課長は感慨深そうに眼をつむり私どもも一緒に歌った。

 「極寒 零下 三十余度
  四月 半ばに 雪消えて
  夏は 水沸く 百度余ぞ」

 この歌は十数年以前から日本全国で流行っていた「朝鮮北境警備隊の歌」なので私もよく知っていた。この歌詞には国境警備の警察隊の苦労が滲んでいたし、メロデーには悲愴さをこらえてドライに突き進んで行くような、何か割り切ったようなにぎやかさがあった。

 「さあ今度はあんた方の郷里の歌だ」
 と刑事さんが言った。

 「鹿児島小原節でいきます」と言って姉娘が歌い始めた。そして妹娘が踊った。江上も私も一緒に歌った。

 ダム工事壕のあらあらしいたたずまい。幾脚もの高圧鉄塔、密集した飯場、作業所、工事機材。さんさんと降りそそで真昼日の太陽。にぎやかな筈なのに森閑とした感じの聚落のたたずまい。それらを前景に豪然とそびえ、どっしりと広がるダムと発電所。

 「ここは朝鮮の北の端だ。国境の工事場だ」と改めて思い直しながら、私はふと歌うのを止めた。鹿児島小原節の甲高い歌声が、傾いた飲屋の窓から赤土の乾いた町の中に流れ出ていた。

 「あんたの郷里は鹿児島か」
 と歌の絶え間に話しかけると、姉娘が言った。
 「貧乏な農家で育ったんだよ。遊廓に身売りするより朝鮮に渡って働けばいい稼ぎができて親に仕送りができると聞いて、京城のカフェで女給をしたのが始まりなのよ。最初は調子が良かったんだけど、そして妹も呼んだんだけど、そのあとが」

 女の身の上話を聞いている時間もないので、ビールを飲み親子丼を食べ終ると既に二時半になっていた。

 同じ会社の小規模の鉱山に立ち寄り、峠を越えて南へ下って行った。既に廃鉱になっている他の会社の採掘場跡を過ぎると次第に山並がなだらかになって来た。

 「今夜は来温温泉で泊まります」と有坂課長さんは云って、何時の間にか心地良さそうに眠ってしまわれた。私と江上は交互に運転手の横に席をとった。そして話し合ったりまどろんだりしていた。運転手は内地人で四十代も半ばを過ぎた温厚な感じの人だった。十年余り以前まで東京でタクシーの運転手をしていたが、丁度会社が朝鮮で仕事を拡張する際の増員に応募し採用されたのだった。幾つかの鉱山の乗用車の運転歴を経て四年余り以前からこの鉱山に勤務していた。

 来温温泉のホテルに着いたのは夕方の六時頃だった。比較的設備の整った広いホテルだった。大浴場も清潔で気持ちが良かった。有坂課長さんは酒が強かった。私も江上も程々に酔い心地になった。芸者が二人はべった。一人は三十代も半ばの、三味線のよく弾ける芸者であり、他の一人は二十歳には未だ届いて居ない年頃の、芸も歌もできそうにない、未だ専らお給仕のみという感じの女だった。

 庶務課長の有坂さんは酒も強いが歌もうまかった。芸者の三昧で白頭山節を歌われた。

 「白頭 みやまに テンツルシャン
  積りし 雪は
  融けて ながれて アリナレの
  ハアー 若い テンツルシャン
  あの姑の 化粧の水 テンツルシャン」

 私はうっとりとして聞いていた。

 「さあ学生さんも歌いなさいよ。三味線を合わせてあげるから」と芸者が言った。江上が歌い出した。

 「妻をめとらば才たけて
  みめ美わしくなさけあり
  友をえらばば書を読みて
  六分の侠気四分の熱」

 江上が二番まで歌ったのに続けて私が歌った。

 「三たび玄海波を越え
  韓の都に来て見れば
  秋の日悲し王城や
  昔に変わる雲の色」

 歌っているうちに私は次第にゆっくりと噛みしめるように歌った。芸者は三味線を合わせてゆっくり弾いてくれた。

 歌いながら私の胸の中にはまとまりのない想いが往き来していた。自分はいま親や弟妹たちとともに大陸で生活し、大陸にある大学で学んでいる。そして卒業後も大陸で働こうとしている。小さな自分が広い大陸で生活し、自分なりの抱負を持って大陸で働くこと。そのことが大きな夢とロマンで彩られているような気がしている。しかし自分の足もとの現実を見ると、そこは日本に領有されている朝鮮であり、植民地化されている満州だった。そして折に触れてそれぞれの民族の働哭がひしひしと胸に迫って来る。日本は着々と大陸に総合的な産業基地を建設し、その地に固有の諸民族を精神的にも日本に協力させようと計っている。自分がここで働くことは国策のために役立つことではあろう。しかし朝鮮民族や中国民族のためにはどのように意味のあることになるのか。
 「さあ、学生さん、考え込まないでもっと元気を出して」

 と言いながら芸者は歌を変え、にぎやかに鴨緑江節を弾き始めた。

 帰途は博川を経て比較的なだらかな道を鉱山に戻った。所長宅の応接室の隣には娯楽室があり、電気蓄音器と百枚余りのレコードがあった。中にフォスターの曲が数枚あった。私と江上はソファに寄りかかって「遥かなるスワニー河」と「オースザンナ」を何度も繰り返して漫然と聞き流していた。アメリカに住む人々の静と動とを味わうような気分で。この鉱山にアメリカ人の経営していた頃から雇われていた二十一、二歳位の朝鮮のボーイが、ウイスキーを水で薄めて砂糖を加えた飲物を運んで来てくれた。地下室にはいろいろな種類のウイスキーが未だ豊富に並んでいた。物資の豊かな米国の会社から買収した鉱山であり、附属施設だから当然と言えばそのとおりだが、それらを利用して生活して見ると、改めて米国人の経済生活のレベルや幅広い精神的ゆとりがじんわりと身に迫って来た。図書室の蔵書で学校の図書館に役立つものは寄贈し終っていたので、残っている図書はウェスタンものやミステリーものが主であり各種の大衆雑誌が多かった。

 夕食後の所長宅のロビーでは、課長や係長たちが集まり所長の父も加わって、雑談を交わすつどいが不定期に折々開かれることがあった。この夜も昌城や水豊の訪問から帰った庶務課長を中心に、くつろいだ懇談が交わされていた。シャンデリアのもとで、ボーイの運んで来たコーヒーをすすりながらのゆったりしたロビーでの集いは、米国から買収した附属施設ならではの味わえないムードだった。日本が外地で独自に開発した鉱山の附属施設は、当時は簡素なものが多かったのである。

 私と江上は自分たちの部屋に戻って、これまでの見聞に関連して感想を語り合った。

 「今朝、温泉の風呂場で東京の私大の経済学の教授らしい人から視察談を聞いたんだが、新義州郊外の鴨緑江河口附近の工業地帯および港湾の開発はかなり進んでいるそうだ。今年の四月頃発行された『東洋経済』でも紹介されていたが、進出する大企業も多岐にわたり、北朝鮮の豊富な水力電気、それに南満州の豊富な石炭、北朝鮮および南満州の山岳地帯の豊富な地下資源等、それに朝鮮、満州の労働力。これらの資源が総合的に開発され生産力も発揮されれば、大陸における広域産業基地として巨大な力を発揮するだろうということだ」

 と私は経済雑誌で読んだ知識を含めて復習するように語った。江上は言った。

 「満州では鮎川の満州重工業と満鉄、朝鮮側は幾つもの日本の大企業。これらをどういうしくみでまとめて行くのかなあ」

 戦争の長期化とともに経済活動の国家的統制が進行していた。鮎川義介を総裁とする満州重工業は、日産コンツェルンが満州国と資本提携して満州の重工業部門の大部分を担当することになっていた。そして奉天にトラックを主とする自動車工場が生産体制に入っており、撫順以外の炭鉱、金属鉱山も開発が進んでいた。満鉄が経営を続けている遼陽および本渓胡の製鉄工場、そして撫順炭鉱も増産を重ねていた。北朝鮮地区では三菱、三井、住友、日産等の経営する鉱山、中でも日産コンツェルンの中心企業である日本鉱業が、雲山、大楡洞、逐安、成興をはじめとする大小十数箇所の鉱山を経営しており、金、銀、銅、タングステン、モリプデン等が増産され、鎮南浦港には大規模な精錬工場が、公害防止のために設けられた世界屈指の高さの大煙突から日夜煙を棚引かせていた。そして兼二浦には黄海道を主産地とする鉄鉱石を処理する日本製鉄の工場が操業していた。鴨緑江上流の赴戦江、長津江、虚川江の電力を利用しての興南の窒素肥料工場、化学工場、城津の高周波工業工場、清津には三菱製鉄工場、吉州の製紙工場、茂山鉄山、利原鉄山と学生のつけ足しの知識でも枚挙にきりがなかった。

 「いまワシントンで継続中の日米交渉で、アメリカ側の要求は日本は中国からばかりでなく満州からも軍を引き揚げるよう要求している。しかし日本は満州の南部には大工業基地を建設し、既に北満州には二十万を超える農民を移住させている。そして関東軍はこの夏に兵力の拡充を終了したばかりだ。日本が満州から撤兵するようなことは、軍部ばかりでなく国民全般が想像もできないことだと思うよ」

 米国がその要求を貫徹し内容を実現するには、日米交渉に於て、日本の最小限の要求となっている満州確保の条件を譲らないことだった。そして石油の輸出を禁止することを含めた経済封鎖を継続することだった。そのことによって日本を窮地に追い込み、窮鼠猫を噛むというような結果となって日本が米国に戦いを挑んで来ることになれば、戦って日本を敗北せしめ降伏せしめる。このことは日本の戦力比較から判断しても短期間で可能と推測されていた。その結果日本軍が満州を含めて全中国から撤退すると、中国にたいする日本の侵略行為を排除するという、長年の米国の抱負が実現され、米国の正義が貫徹できる筈だった。

 しかし満州地区は日本国家にとって産業経済資源上からも軍事上からも不可欠の地域とされていた。そして既に合邦という形式で領有していた朝鮮との総合開発を積極的に進め、ここに日本国家の大陸における盤石の兵站基地を確立しようとしていた。議論すればきりのない日米交渉の予測だったが、私も日米交渉を通して話し合いによって満州を確保し、他の中国全土から撤兵して米国や英国と戦争を回避してほしかった。それは満州への愛着というか、当時の日本人一般に浸透していた満州を通じてのアジアの民族団結の夢であり、朝鮮と日本との民族的融合を基本に更に広がる夢でもあった。

 「仏印進駐も北部だけなら援蒋ルート封鎖という理由も成立するが、南部にまで進駐したんだから、南進策を欧米にたいして宣言したようなもんだ」と江上は仰向きながら言った。

 「日本がいまアメリカと戦争するのは全く無理な状態にあると思うよ。広大な中国大陸に大軍を張りつけ、ソ・満国境地帯に関東軍を増強し、しかも北朝鮮と南満州地区に大工業地帯を建設中なんだからなあ。そのうえに米英と戦争して東南アジアの産油地帯を確保するなんてことは、どう考えても無謀きわまる国策だよ」

 未だ学習の足らない学生の立場では、いくら考えても解らないことばかりだった。中国大陸における戦争の長期化とともに、国民にたいする思想統制、情報統制は厳しさを増していた。私はしのびよる危機への不安をひしひしと感じながら、ベッドから起き上がって民法の参考書の読みかけのページを開いた。

 

 

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